序文
1945年8月15日二次世界大戦終戦 広島と長崎に 原爆投下という恐ろしい兵器によって、戦争は終結したのです。 何の為に死んでいったか分からない 多くの人々 親を亡くし、子を亡くした 人々、 戦争は勝っても、負けても、苦しむのは庶民です。 戦争はいかなる理由いかなる理由でも、決してあってはならないと 私は思いま す。 それでも この 地球のどこかで、今も 尚行われている。悲惨です。悲しい事 です。
私達は 考えなければ ならないと 思います。 敗戦と共に、私達一家も朝鮮から引きあげてきました。本当に命がけで逃げて来た のです。此の時代に、少女期を過ごした私の心は、まるで鉋(カンナ)のかかつて いない板のように、ささくれだっている。食べる物も、着る物も無く、 住む家は マッチ箱のような小さい家。 何の為に生きているのか?分からない毎日。それでも父が生きている間は、まだ何 とかなっていたのです。
父が結核になり、4年間の闘病の後 死亡!その頃の我が家は 毎日の食事にも事欠くような 貧しさ。 上の兄が結婚して大坂に出て行った後は、姉が料理屋に住み込みで働き 一家を支 えていたのです。母と私は、川にシジミを取りに行って売り歩いたり、もやしを 作って売ったり、泥人形の頭を型にハメて作る内職を手伝ったり。それでも母や下 の兄が一緒に住んでいる間は まだ良かったのですが、母は下の兄が中学校を卒業 すると二人で大坂に行ってしまい、当時小学六年生の私は、独りボッチになつてし まいました。3日に1度くらい 姉の働いて居る 料亭に お金を貰いに行き、 それで生活をしていたのです。
其の頃の私の楽しみは、映画に行く事無声映画は弁 士が筋書きを語り、その横で 音楽は三味線 ~。其れは私にとって、素晴らしい物でした。家に帰ると隣近所の子供達を集めて、学芸会ごっこ。歌あり、踊りあり、モ チロン演出は“アタシ” 。中学二年生の時、この故郷 高知 から母と兄のいる大坂へ。然し、私の生活は幸福 なものではありませんでした。まだ高知 の田舎で自然の中で自由に生きることの方が幸福でした。
母は尼崎県立病院の付き添い看護婦として、病院で泊まり込み で働いて居ました。病院の裏に 付き添いさんが料理をする 台所のような長い小屋 があり、そこで付き添いさんは、病人の食事を作っていたのです。アタシは其処に 食事に通いました。尼崎に来てから 色々な親類の家に預けられましたが、最後は母の働いて居る病院 の近くの 少し傾いた、老人夫婦が住んでいる 三畳の部屋を借りて、其処から学校 へ通いました。そこは母の働いて居る病院に近かったので、とても便利でした。でも私は、生きることがとても 嫌でした。何の為に生まれてきたのか?解らない 毎日、映画を観ている時だけが何もかも忘れる時間でした。 母が 苦しい家計の中 からバレエ教室に通わせてもらいました。習い始めてから 私は生きる意欲が湧いてきたのです。 “バレエ”、其れは私にとって生きる‼ ことでした。
Maurice Béjartと私
① モーリス、 私が貴方に会ったのは、 Paris の Studio Wackerでしたね。 Madame Nora Kiss のクラスを受けている時でした。 私の事を何となく見ているみたいで 余り気持ちは快くありませんでした。レッス ンが終わって、建物の中にあるcaféに降りて行くと、昼食中の Madame Nora Kiss に呼ばれて、彼女の前に行くと 、「明日 世界的に有名な 振付家が、貴女を観に来る」。 翌る日、稽古場に行くと Madame と貴方が前に座っていましたね。 私は足がすくんで 何時ものようにはレッスンが出来ましせんでした。 其れから 3ヶ月後 ベルギーのブリュッセル に行く事に成りましたね 。
モーリス、 なぜ貴方が Madame Nora Kissのクラスに居たのか? ずっとずーっと後に成って知りました。2007年の2月に、シユトツトガルド・バレエ団が 貴方の作品 “Gaité parisienne”を公演した時でした。Madame Nora Kiss この作品に出てくる Madame Rousanne のおばさんだったのですね。 Madame Nora Kiss は モーリス貴方の先生だったのですね。 貴方の代わりに振り移しに来ていた piotr NARDELLIに聞くまで 知りませんでし た。私は何処か、ぼ~としていると処があり 自分ながら ウンザリします。 私にとって貴方との出会いは 私の人生を大きく変えることになりました。
②私は 14歳の年に バレエと 巡り逢いました。其れまでは、バレエのバの字も知 りませんでした。でも 芸事は 何でも 日本舞踊もやりました。演劇も好きで、特に 宝塚は大好きで よく観に行きました。行くと 其の時の出し物の台本を買ってき て、放課後 学校に残って好きな者同士で 稽古をやっていました。小遣いさんに放 り出されるまで 学校に残っていました。
それが ある日 母が買い物に行った折、市場の近くにある幼稚園を覗くと 子供達が 踊っていたとの事 。それを聞くなり 私はソコに出かけて行きました。そして 母は 苦しい家計の中から 私を 其のお稽古場に通わせてくれました、週2回のレッスン は 本当に待ちどうしかつたです。私はバレエというものを知りませんでしたが、2度目のレッスンを受けた時、心の 底から「私はバレエを一生やっていこう」と決心しました。 其の頃、私は本当に 生きることが 余り好きでは有りませんでした。 それは、日本の敗戦と共に 朝鮮 から引きあげてきた 私達一家は 余りにも 過酷な生活をしなければならなかった からです。 “バレエ” 、其れは私の生きる目的に成ったのです。
③ モーリス、 戦争は、絶対しては いけませんよね。今だ 世界は、 彼方こちらで 戦争をしています、苦しむのは みんな一般の人々です。 母を失い、父を失い、子供を失い、夫を失う。こんな悲しい事を人間は何時まで続 けるのでしようか?
モーリス、私はあなたの「ロメオとジュリエット」が 大好きです。 其れは この作品の終わりに「Fais l'amour. Pas la Guerre!」 ナレーションが入りますよね。「戦争を止めて、愛し合おう!」。そう 私達一家も 戦争の為に何もかも失いました。 朝鮮から命からがら逃げて来 たのです。日本の敗戦と共に 日に日に激しくなる朝鮮人の暴動、 あちらこちらで日 本人が殺されたという ニュース。父を残した私達一家は、まず佂山にある憲兵の合宿所に逃げて行きました。そこで 集った日本人達は お金を出し合って 小さな漁船を買い その船で玄界灘に乗り出 したものの、 9月の台風のシーズン、案の定 台風に出会い、1日で日本に着く筈のが流されること 三日三晩、 着いた所は門司の造船所の砂浜。 それでも日本で良かったと みんなひと安心。そ こで ご飯を焚かせてもらい オニギリにして それぞれが持つて、自分の郷里へ別 れて行きました。
小さな子供で 生き残ったのは 6歳だつた私だけでした。 私達一家は、父の故郷 高知県の下八川に向かって 汽車を乗り継ぎ 行きました。その汽車も大変なものでした。汽車は石炭車 黒い煙がモクモク上がるヤツです。 ソノ煙が目に入り それを擦るのですから 目は 真っ赤っか 朝起きる時は 目やにで目が開かなく ホウ酸水で母に目を洗ってもら わないと 目が開けられませんでした。其れだけではありません 汽車は超満員、帰争兵と引揚者 其れは大変なものでし た。それでも 私達一家は高知市に着きました。
然し其処から 下八川までは 全く 交通機関が無いとのこと そこ迄の距離は“四里”約16Km 。とても小さな私には 歩 くことは無理。そこで一番上の兄が 色々探して 荷馬車がそこまで帰るとのこと、 荷を積んで来たが帰りには何も無いから 私達一家はその馬車に乗せてもらう事に なりました。秋の空と何とかは~変わりやすい!と言うように 雨が降ったとお もったら、太陽が出る。着ている物が濡れたり、乾いたり~。 私はその時、ピンク色の夏帽子を被っていたのですが それが濡れて 滴る雨を見て 「うん、内地の雨はピンク色をしているダナー」と子供心に憶えていました。大き く成って 考えてみた時 それは帽子の色が溶けていたんだなぁ~と思いました。 下八川に着いてからが、又 大変 私達一家が住む処は 其処から又何Kmも山を登っ て行かなければなりません。雨がたくさん降ると 道は滝のようになる代物。私は その為 小学校を一年間遅らせて 高知市に出てから通うことになるのです。
宇津木 と言うその場所は、それは高い所にあり 雲が下に流れているような所でした。 そこで一番嫌だつた事はトイレ。私達の寝泊まりする処から離れていて、夜はとても 怖くて行けた代物では 有りません。風呂場も洗い場が竹床で伱間があり、「もし コ ノ竹床が抜けて落ちたら どうしようか?」と 何時も お風呂に入るのが恐ろしかつ たのです。 それともう一つ お米を売ってくれ無いので、来る日も来る日も サツマイモ。 ゾーッとします。今でもサツマイモは好きではありません。 其れでも山は大好きでした。 アケビやグミの実、山イチジク 葛の根、食べるものは沢山ありました。ある日 上 の兄から聞かされた事だけど、私の曾祖父さんは 忍者だつたとのこと。そして 私 の住んでいる 所から更に山の天辺、私は一度行って見ました。ススキは私の背よ りも高く、ミミズはまるで蛇のように大きく、本当に辺鄙な所で 然し確かに人が 住んでいた形跡は残って居ました。
私は後になって考えてみましたが、 曽祖父さんは 少々変わり者であったのだと思いました。 其れから 間もなく 父が帰国してきました、朝鮮を出発したのは十二艘の モー ターボートで十一艘まで魚雷に当たって 海の藻屑となったとの事。其の頃 魚雷は 切り離され 海にプカプカ浮いていたとの事。私達の乗った船が“良く当たり”もし無いで 内地に着いたのは 軌跡と云うか! 乗っていた人達が 運が強い人ばかりだったというか?不思議な事でした。 其れ から1年ほどして 私達一家は 高知市に出て行きました。
④高知市と言っても、建ち並ぶ家はマッチ箱のような 杉皮を張った小さなマー ケット。ある日電車道隔てた向かい側のマーケットが火事になり、ソノ燃え方は巨 大な焚き火の様なものでした。 町はスコットランド兵がキルトはき、ベレー帽をかぶつて練り歩き、道には戦争孤児がウロウロ。食べる物は サツマイモとカボチャ。そして 黒砂糖、米は配給されず、上の兄が大きな リュックサックを背負って 田舎に買い出しに行っていました。警察の目を逃れて 家に辿り着くのは並大抵の 事では 無かったようです。其れでも 父が生きている間は 古着屋を出して 商売上手な父は 一家を余り不自由させませんでした。その父が結核に倒れ 四年間の入院生活の後 死亡した頃、我が家は貧乏のドン底。上の兄が高校卒業してしばらくすると、下八川から恋人を連れて来て、結婚し大坂に 出て行くと、その一つ下の姉の肩に一家の生活が かかってゆき、姉は大変苦労して 一生 結婚する事も無く、最後は彼女一人が、母の面倒を見て 癌で七十歳の生涯を 終えるのです。 姉の生涯を見ていると(幸福だったのだろうか?)と 考えてしまいます。私と下の兄は コノ姉を心から尊敬していました。年が離れていた二人は、姉に育てられ た様なものです。母は余り強い人ではなく 姉を一生頼りとして 居ましたので、姉 の死後 六ヶ月後に亡くなりました 姉の居無い世の中は 母には無意味だつたのでしよう。
⑤ モーリス、私の家族は本当に貧しかったので バレエを習うと言っても 自分で 働きながら習わなくてはなりませんでした。一応 高校二年生まで行きましたが、学校に 行き 働きながら バレエを習う・・・其れは 大変な事です。何かを捨てなくてはなりません。勉強はしたいのですが時間がなく、 バレエは絶対に続け行きたく 高校を断念しました。でも “勉強は学校に行かなくても、一生続けていける」という事を SGI会長 池田先生に教わりました。未だ勉強中です。死ぬまで続けます。 人生そのものが学ぶこと。生き続けるかぎり 沢山の教えを学ぶ事ができるのです ね。
モーリス 今の日本のバレエ界は大変進歩しました。沢山のダンサーが外国のバレエ団で働き・帰国して・バレエ団を作り、 沢山の素晴らしいバレエ・ダンサーを育てています、しかし 市立、国立のバレエ 団は ただ一つ、新国立劇場だけです。未だ日本で バレエダンサーの生活は何一つ 保障されていません。踊る為にお金を出し、公演のたびに入場券を売らなければな りません、売れない場合は 全て 自分持ち。とても貧しい人達には出来ません。今 外国には沢山の留学生が来て居 ます。親達は 子供の為に 沢山のお金を払っています。 私のように お金もなく 親の援助もなく 外国に出てくるなど、私の時代では 考え られ無い事なのです。友達に「それは無鉄砲な事」と言われました。でも 其れを しなければ“今の私は無かったのです”。
⑥ モーリス、 私は1964年10月10日、そう “東京オリンピック開会式”の日に、神戸港 から ラオス号というフランスのCompagnie des messagers 会社の三等の船客になって大西洋を横断しました。一ヶ月と四日間 マルセイユの港に着きました。この 三等のチケットも二年間、大坂のバーにレッスンを終えて 夜働いたお金で ようや く買ったものです。家に帰るのは 何時も 真夜中の一時~二時。 明くる日は 朝十時 にレッスンに行かねばなりません。 チケットを手に入れた時の喜びは 其れは大き なモノでした。パスポートの自由化になった年 私は日本を離れました。 寄港地は、横浜・九龍・サイゴン・シンガポール・セイロン(Sri Lanka)ボンベ イ・ジプチ・バルセロナ それから マルセイユ とても良い思い出になりました。
悲しかった事は、ベトナム戦争が勃発した頃 で、サイゴンは まだ 其れ程では 有りませんでしたが、人々は不安と悲しみに 暮れ ていました。 スエズ運河を登って居た時の 夕陽の美しさは 言葉で言い現すコトが出来ませ ん。大きな、大きな観た事も無いような太陽が 砂漠に沈んで行く。辺りは真っ 赤・船も人も・皆んな真っ赤。 その後の夜空は 見た事も無いくらい沢山星が 頭 上で光り輝き 星が一分間毎に 流れる。 其れはソレは素晴らしいモノでした。
地中海を抜けると 急に寒くなり、船員達 も白から紺色の服に。私は意気揚々とあつらえたばかりの 芥子色のスーツを着て・バルセロナの街に出かけました。ところが 私の着ている 服は バルセロナの電車の車掌さんの制服と一緒だったのでとても 恥ずかしいおも いをしました。 フランスのマルセイユ港に一月十四日に着き、船で知り合った人々と名残りを 惜 しんで 別れ 迎えに来てくれた友達と、Aix en Provenceに行きました。友達は Aix en Provence でフランス文学をしている人でした。三日程泊めてもらい マルセイ ユ駅から巴里に向かったのです Paris の北駅に到着した私を待っていてくれたのは日本から連絡していた教会のシ スターでした。本当はシャラントンに在る教会に在る 女子 寮に入る 予定でしたが、Paris から少し離れているので、Paris 市内の教会を紹介 してくれました。其処にひとまず落ち着いて まず語学学校の Alliance Française に 通うことにしました, Parisは とても 寒く、メトロの中は暖かく多くのhomelessが 住んでいました。
⑦ モーリス、 Parisの生活は大変苦しく、悲しいものでしたが今の私にとっては、 とても 味愛の有る想い出になっています、巴里の生活は始まったのですが 何処に バレエ教室在るかがわからなく、日本にParis O'pera座が公演に来ていた時に知りあったダンサーに手紙を書いたのですが、何の返事もありません。悶々と練習出 来無い日が10日程、続きました。ある日の夕方、その人は日本人のダンサーを連 れて来て私に紹介してくれました。井上君は私を一目見るなり「貴女は可愛いか ら、ウケるわよ」。井上君の紹介で 元 Opera座のダンサーだったMadame ペレツ チの教える 教室に通うことになりました。(井上君は 後に日本に帰国して ス ター・ダンサーズを設立しました。) デモ 私にとって バレエを深く理解したい希望に燃えていたので余り満足では、あ りませんでした。 其れに教会の女子寮も夜の9時が門限。バレエ公演が、夜の8時 か8時半から始まるので とてもバレエなど観に行けません。 唯悶々とした日が 過ぎて行きました。
その 優さ晴らしではありませんが、絵の好きな私は 美術館や画廊を見て廻りました。この巴里は本当に素晴らしい 作品を見る事が出来ました。私が心を惹かれたの は、Musée du Louvre の“ミレの落穂拾い”。そして新進のビュッフェ。Artは私を 違う世界に連れて行ってくれました。其の画廊廻りで 私は Mademoiselle マリ ロー・ルイという一人のフランス人と知り合いになりました。彼女は前に Roland Petitのバレエ団でとの事。彼女は Studio Wackerで教えているMadame Nora Kiss を 紹介してもらったのです。スタジオ ワツケーは 今はもう無くなりましたが、有名 なダンサーから、無名のダンサー、色々な人がそのスタジオには集まって来ていた のです。ミラルド・ミスコベツチ、ジジ ・ジャンメール、ミカエル・ドナ、其れに オペラ座のダンサー達、そして 私の様な無名のダンサー。上下の差など無く、皆 んなが声を掛け合う。何処かの踏ん反り返ったダンサーなど、ここでは通用し無い のです。私の最も好きな雰囲気で、私が経営しているバレエ教室《Schule des balletts》はこんな感じです。その人の技術 場所は、その人の舞台で、発揮す ることで有って、普段は 皆んなと同じ生活で良いと思っています。
Mademoiselle マリローの紹介で彼女のお祖母さんが持っている、Parisの16区にある 素晴らし い 昔ながらのアパートに住むことができるようになりました。でも 私が 住む部屋 は、中庭を通って裏階段を7階まで上がらなければなりません、その階段は 各ア パートの台所に通じていて、マリローのお祖母さんは 5階に住んでいました、 女中さんがいて 全てお祖母さんの面倒を見ていました。私は そのAnna と言う チェコ人の女中さんに トテモお世話になりました、お金の無い私は 夜遅く お腹 を空かして コトコトと 長い階段を登らねばなりません。時々、彼女は 私の為に 鶏肉やご飯、野菜の料理を お皿に、一杯取っておいて 私の足音を聞くと 台所の 扉を開けて、 私に 「食べなさい」とくれるのです。其れは私にとって最高のご馳走でした。何しろ、 お金の無い私は1日 ジュース一杯 少し仕事が有って お金のある時は、卵 2個とバゲットを買って、部屋に帰ってキャンピングガスでイ リ卵をして食べるのです。私の部屋はベッドと押入れがあるだけ、水も廊下に汲み に行かなければなりません。トイレも共同、 お風呂もありません。私はヤカンとフライパン、プラスチックの桶を買って、 其れで全てをまかなっていました。私のお風呂は桶 立ったまま入るのです。部屋の 床はタイルなので 少々濡れても平気。 時々annaが「Madame が今日は留守だか ら お風呂に 入りに来なさい」と 誘ってくれます。その時は、髪を洗い ユッタリと湯ぶねに浸かり 身体を 休めるの です。
⑧モーリス 私は親からの仕送りは 一銭もありません。仕事は何でもしまし た。絵のモデル、写真のモデル、 Parisの Olympia劇場で 歌手の後ろで踊る踊り子。コレは、少々お金になりました。Sasha Distel,Mireille Mathieu 名前は忘れましたが、その他の有名な歌手で、お金にはなっても、ソレは 悲しいものでした。その人達とテレビ出演 又はロケーションに行くと、何日もバ レエのレッスンが出来ません。デモ お金を稼がねば レッスン代もアパート代も払 わなければ。バレエの仕事など 本当に少なく、払いも悪く そういう仕事もいつもあるわけでは無く、生活は大変でした。 Paris生活 約一年半、万策尽きた私は セーヌ河に架かる橋の上に“死ぬつもり”で 立ちました。デモ 人間は 中々 死ね無いものデスね。 その時 私は ある人から聞いた 仏教徒の祈りの言葉を思い出しました。 ソノ言葉を唱えると《願いが叶う》 と言うのです。ソノ仏教徒のグ ループ は Paris にもあるとの事、探しました。そして 其のグループの 座談会と言う会合に出 、“ご本尊様”を頂きました。此のご本尊様を 信じて祈れば願 いが叶う そして“幸福になる” と言うのです。 敗戦の時代に 少女期を過ごし、貧しい家庭に育った私にとって《幸福 》と言う言葉に 縁の無い者でした。「幸福になりたい!私の望みを、願いを、叶 えたい」。其の 思いは止むことはできませんでした
⑨モーリス 知って居ますか? 南無妙法蓮経 という言葉です。 本当に ご本尊様を受け、其の言葉で祈って 三ヶ月目に 貴方に 出合ったのす。貴方は私に大変興味を持ったようですね。私は 貴方の事を、全然 知りませんでし た。でも Madame Nora・Kiss から貴方が世界的に有名な 振付家だと聞き 胸がド キドキしました。其れから しばらくして 貴方からの 契約書が届きましたよね。 三ヶ月間、ベートーベン第九のヨーロッパ巡業の為に 4人の日本人が必要なので、 その契約だったのですね。その時 私はParisのモガドの 一年間の契約書が来ていたのです。お金の払いも 貴方の処より ずっと良く 私は迷いました。でも モガドはオペレッタ 。二十世紀バレエ団は バレエ! 三ヶ月たつたら また元に戻る事になると思いましたが 、バレエを選びました。 この巡業で 知り合つた日本人は、工藤大二・吉田則男・黒岩さん 、本当に楽しい 三ヶ月でした。 公演地は、Berlin, Amsterdam, Paris, Lyon、よく4人で遊びました。その後 私は結局バレエ団に残ることになりました。 第九の出演は 第四楽章だけ。デモ私が気に入つた 貴方は 第三楽章のsolisteの役を頂きましたね。其れは 唯一人の日本人ダンサーで バレエ団にいた 宇田川さんと 一緒に踊りました。 その後 Jorge Donn と踊ることに 成りましたね 。でも本当に 「Hitomi このバレエ団に残らないか?」と、モーリス、貴方から 言われた時はホッ としました。 これからは 給料を頂きながら、バレエが出来るのですもの。それは私にとって 天国へ行く様な気持ちでした。日本では考えられない時代でしたので・・・
⑩ 1966年7月中旬、私は Parisに別れを告げて ベルギーの Bruxelles 行き の汽車に乗りました。其の汽車の中で、同じ様に二十世紀バレエ団と契約した ス ペイン人の Victor Ullate と一緒になりました。彼は其の時 19歳、後に. Ni Fleur, Ni Couronne. と いう バレエの中で、〈青い鳥〉という pas de deux を 踊ることにな成るのです。そしてそれは各地で絶賛を浴びる事になりました。Victor は素晴 らしいテクニックの持ち主で、飛ぶこと高く、回ること十数回ア ラ スゴンドで4 回まわって 其のままバランスを整えるんです。 始めての ParisーBruxelles の旅は とても 楽しいモノになりました。 Bruxelles の駅で ビクトーと別れて 私には まだ泊まる処が無く、中国人の経営する appartement Hôtelにしばらく泊まることになりました。Hôtel は rue des Dominicains に在り、 バレエ団のレッスン場(後の Conservatoire de Danse)rue de la Fourche の隣 レッスンに行くのに、とても便利。モネ劇場にも 直ぐ近く、 でも長いことHotel暮らしを するわけにはいかないので、少し離れては いました が ある家の一室を借りて住むことになりました。 バレエ団に入って直ぐ、Franceの Festival d'Avignon 公演に行く為のリハーサル。 全ての出し物を覚えねばなら無く、泣いてばかりいました。7月28日から始まり 終わると Bruxelles に帰り、今度はフェステバル 、 バルベック(Beyrouth)のリ ハーサル、其れには コールドバレエとして〈Les oiseaux〉を踊る。 涙が出るほど 素晴らしいバレエです。取り分け Tania Bariが 大勢の男のダンサーと踊るところ の リハーサルを観て、感激して涙が出て 仕方がありませんでした。 バレエ団に入って直ぐ親しくなったのが Marie-Claire という フランスの女性で 、私 ととても 仲良くしてくれました。 そしてムッシュGerminal Casado (彼はドイ ツのカールスルの劇場のデレクターを25年間 続けた人です)。彼は良く私を 「Petite Japonaise (小さな日本人)」と言つて可愛いがってくれました。宇田川 さんにも お世話になりました。でも 其の他の人たちは皆んな 少し恐ろしかつた のです。 フェステバル・バルベック(Beyrouth)が終わって Bruxellesに帰って来たのは8 月の末 。‘私は事務所に呼ばれました。’ 私は キット‘辞めさせられる’ 恐る恐る事務 所に行きました。そして私は 思いもかけなかった事を モーリス、貴方の口から 聞く のです。
⑪モーリス、 私はバレエが好きです。だから どんな position で踊っていて も 嬉しいのです。でも貴方は途方も無い事を 言ったのです。「君と Jorge Donn に “ロミオとジュリエット” の振付を創るから、シッカリ 頑張りなさい!」と言われ た時には、嬉しさより 恐ろしさが 先に立ちました。 その日から 1ヶ月、 バレエ団が休みでも、私とジョルジュは 休みでは 有りませんでしたね。私は もう無我夢中でした。公演の日が近づくのが まるで一 日イチニチが死刑を宣告された 死刑囚の様な気持ちで、 その日から楽しいモノでは無くなり、 自分の命を全て踊りに つぎ込みました。
《ロミオとジュリエット》 1966年10月 Bruxelles Cirque Royal 劇場 初演。 初日・Paolo Bartolozzi, Laura Proença。 二日目・Jorge Donn, Hitomi Asakawa。 私は 死にもの狂いで舞台に出て行き 息もつかず、最後まで踊り抜きました。ジョ ルジュは素晴らしいパートナーで、未熟な私を 良く支えてくれました。無我夢中 で踊り抜いた成果は、満場、爆発の拍手をもって 迎えられたのです。そして 翌る 日の新聞には、新しい二人のダンサーを讃えた記事で、一杯! それから 日 本.France, Germany, Holland, Portugal と 何処に行っても 満場の拍手をもって迎 えられました。
《Ni fleur》の中の 青い鳥の Pas de deux 。スペイン人の Victor Ullate が相手役。 私達は オーロラ姫と王子の Pas de deux を踊り満場の人気を集めました。 そして 《Bhakti》白の踊り。相手役は Paolo Bartolozzi。私のダンサーとしての位置は不 動の者の様に 見えました。
しかしMaurice、 貴方が私に inspiration を感じ無い時 は、何の役も与えられ無かったのですね。私は悩みました。あんなに沢山の拍手も らった私は、 corps de ballet を踊ると 人々は 見向きもしません。あんなに 何処で 踊っても、嬉しかった自分が いつの間にか 人気と不人気の間に挟まって、自練磨を起こしている。そんな 自分が嫌に成って 来たのです。風船玉の様な 中身の無い自分。一体 私は何者なのか?何も 分からな くなりました。昔の様な 踊ることが 本当に楽しい。自分に 戻りたい。ソノ気持ちが 次第に大きくなり、《Bhakti》のBerlin公演を前日に控えて、私はBerlin発11時45 分の汽車乗って、Bruxelles に 帰ってきました 其れは1970年11月でした。 でも それは ダンサーとして 絶対にしてはならないことでした。其のことが原因で 私は 一生 苦しみ抜かねばならなかったのです。
何の解決も見出せ無いまま 「Maurice 貴方のバレエ団に戻りたい」と言う私を 良く受け入れてくれましたね。 然し 前に solisteで、《ロミオとジュリエット》のヒロインを演じた 私は corps de ballet を踊らせて もらえるのが 精一杯!私は 段々 頭が 狂って来るのが 解りまし た。もう 何も覚えることも、踊ることも 出来なくなってしまった自分。有るもの は恐怖だけ! 二年位たった時から 少しずつ 役を頂ました。 そんな中で、ジョゼフ・パレス教師 だった 彼は 良く私を可愛がってくれました そして、38才の時、バレエ団からの 契約解消の手紙を受け取った私に、 Conservatoire de Bruxelles のバレエ教師としての 道を与えてくれたのです。 教え ることは 余り 好きではありませんでしたが、生活をして、母や姉にも 仕送りを しなければ成りません。でも 私が本当にしたかった事は[振付け]です。 バレエ を創りたいのです。
⑫ Maurice、私は貴方のバレエ団を辞めて、Conservatoire の教師として働きな がら 子供を産みました。そして間も無く ドイツのStuttgartに 結婚と共に移りま した。そして 二人目の子供を産みました。 二人共男の子です。今はもう30歳と25歳 に 成長しました。
私の結婚は 決して 幸福なものではありませんでした。彼は誰? そう紙の上だけの夫!彼が私に「紙の上だけの妻」と言うのだから、そうなりま す。彼と別居してもう10年過ぎました。苦しみました この10年 ヨハヒム彼と私が出逢ったのは、ドイツのStuttgart 公演に来た時でした。 Bruxellesに帰る飛行機が夕方、其の間 バレー団のメンバーは食事に行ったり、街 を見物に行きましたが、私は ひとりHotelの窓から見える 高い葡萄畑を見たくて あちこちと迷いながら登って行きました。 そこで彼に 出逢いました。
ヨハヒムは、 イタリアのスポーツカーに乗って車の中から 英語で話しかけてきましたが「ワカラナイ」と 言うとフランス語で話しかけてきました。「何をしているの?」 私は 其の頃 本当に 男の人を 信じて居ませんでした。辛い経験をして居たからで す。でも彼が車を止めて降りてきた姿を見て ビックリしました。長い狐の毛皮の マキシム・マント、帽子も狐の毛皮。貧しく育った私には こんな服装をした男性 を見たのは初めて、ビックリ仰天しました。彼は私を夕食に招待しましたが 私は Bruxelles に帰らなければならないので 断りました、そうすると 名刺をくれ 車を 走らせて行ってしまいました。私は暫く考えて 時間があるので 其の名刺の住所を 探して訪ねて行きました。彼はそこで(La Chemise)高級紳服の店を持っていま した。ヨハヒムは恋人と一緖にお店を経営して居ました。彼は少し、慌てて 私が こんなに直ぐ訪ねて来るとは思わなかつたのでしよう。
彼と私の出会いはこんな風 でした。でも私の辛い経験は 前に付き合って居たフランス人の恋人との事でし た。私のことを愛していると言いながら、他の女性と暮らして 平気で私の所に 帰ってくる。私は頭が狂いました。憎しみ と悲しみ。 Philippe に出て行ってもらいま した。でも私はひとりでバレー団の中で踊れません。“誰かの 助けが必要だつたので す”。デモ 一人ぼっちの私は 余りにも世間知らず、恐ろしさが 増すばかりでした。 7年も真っ暗闇の中で過ごした私は、仏に祈ることで ようやく脱出したところで した。此の経験を二度と繰り返したく無かった!私は大変、慎重でした。でも彼は 度々Bruxelles に通ってきました、彼女と暮らしながら・・・。
私は家族が欲しかったので子供が出来た時は大喜び。でも 、恋人のヨハヒムは子 供は いら無いと 怒りました、一時期、順子ちゃんのアパートに避難していまし た。子供が生まれても、ヨハヒムは 見にも来ませんでした。出産後、1週間内に 出 産届けを出さなければなら無いので私は一人で市役所に行つたのです。 母が手伝いに Bruxelles に来てくれたので心丈夫でした。時々 ヨハヒム は私達に 会いに来るように成り、坊やが1歳になる頃 毎月2500FBを 渡してくれるようにな りました、保育園に支払いするのがヤツト! そして 彼はドイツとベルギーを往復するのが大変なので、子供が2歳半に成った 時、私達は結婚してドイツのシユトツトガルトに住むことに成りました。コレは母 のたっての 願いでした。
私は彼と結婚しても 決して、幸せではありませんでし た。言葉も分からず、バレエ以外は何もでき無い私。 主婦になりたくとも、生活 費を少ししかくれ無いのです。私は母や姉に仕送りをし無ければ、その為にゲスト 出演でまだ 踊らなければならない、レッスンを受けなくては成りません、生活は 決して楽では有りませんでした。ヨハヒムも お母さんの経営する、店が1000万マ ルクの借金をつくり 倒産!そして 義父の自殺、大変でした。彼の口癖の “お金が 無い” 常に女性が周りにいる。
私と結婚してからも、いろんな女性と 付き合って 居たのを知っていました。 そして、私と一緒にいた時、他の女性と寝た話しをした時は、私の身も心も 収縮 しました。苦しみました、ヨハヒムの事を 不潔だと思いました 私と ヨハヒムの間には、二人の子供がいます。長男の譲治は、一番難しい年頃の 時に 私と 彼 の仲がおかしくなり、可哀そうでした。ヨハヒムは自分の子供でも そぐわなければ 追い出すのです。譲治は18歳で 家から 追い出されました。次 男の謙治は青少年を預かるホームに 行かされました、何時も私が仕事から帰宅す ると、家の前に汚い よごれたままの姿で座っています。何もできない私は、辛 く、苦しかった、ヨハヒムは 謙治を もっと帰ってこれ無い遠い所に預けると 言った時!私は 今 立ち上がらなければ、と決心して「全責任を私が負う」 と言って 青少年係りの役人、ヨハヒム、謙治と話し合って 謙治を連れて帰って来 たのです。 譲治はドイツを 嫌って 現在 タイのバンコクで モデルの仕事をしています。下の 謙治は一時期 ベルギーの友達の家に、預かって貰い フランス語を学びました、そ して 今年(2009年)10月から 大学に行き始めました。
私はその後、バレー団 を退団して、ジョゼフ・パレス先生の紹介で Conservatoire. de. Dance. Bruxelles の 教師として働いて居ました。私は家族が欲しがったので、 子供が出来た 時は大喜び!でも ヨハヒムは大反対 。 一時期 順子ちゃんのアパートに避難して居 ました。子供が生まれても 会いにも来ませんでした。出産から一週間以内に役所 に出産届けを出さなければなりません。私は一人で行きました。母に Bruxelles に手 伝いに来てもらつたので、心丈夫でした。 彼は 度々Bruxelles に通って来て、子供が1才になった頃、 毎月2500FB 手渡してく れました。でも其れは子供の保育園の費用にしか成らない。お金なんて如何良かっ たのです。そして子供が2才半に成った時、結婚を申し込まれました。(此れは母 が大賛成でした)
私達は結婚してドイツに住むことになりました。でも ヨハヒム と結婚しても、決して幸福では 有りませんでした。言葉も解らず、バレエ以外 何 も出来ない私!踊りを辞めて 主婦になりたくとも、 彼は生活費を少ししか 渡して くれません。私は 母や姉に 仕送りをしなくては 成りませんでした。その為に 又 ゲスト出演で踊らなければならない私は、稽古をしなくてはならず、生活は 決し て楽ではありませんでした。 ヨハヒムの方も、母親の経営して居た店舗が 1,000マルクの借金を作り‘倒産’ 。義 父の自殺。 大変でした。彼の 口癖の「おカネが無い 無い」。口を開けば「おカネが 無い」。 そして 女性が大好き。
悩み 苦しみました。でも 私達の間には 2人の子供 が居ます 譲治と謙治です。謙治は、一番難しい年齢の時に 私達の仲がおかしくな り可哀そうでした。ヨハヒムは自分の子供でも 思い通りに成らないと 追い出すの です、 譲治は18才で 家から追い出されました。そして謙治は 問題児を収容する寄宿舎に 預けられました。何時も仕事から帰ってくると、アパートの前に汚い よごれたま まの姿で、座って居ます。何も出来ない私は本当に苦しかった。ヨハヒムが、謙治 を帰って来れない もっと 遠い所に預ける言った時、私は立ち上がらなければ と 決心して、全責任を私が負う!と言って、 青少年係の役人と夫と謙治と話し合って 連れて帰って来たのです。謙治は それから半年 Bruxelles の順子ちゃんの家に預 けて フランス語を勉強しました。
バレエ教室を開いて もう 20年が経ちました。そして まがりなりにも振り付けをし て、バレエ講義をしています。 Maurice、貴方がこの世を去ったのは 80歳、私は まだ 70歳。 私達はいつか この世に別れを告げなければ成りません。 其れ迄 自分成り の人生を一生懸命 生きたく思います。Maurice 、私は貴方にゴメンナサイと謝りた かつたけれど、貴方は遠い所ヘ行ってしまいましたね。この間 Belgiumに行った 時、Béjart Lausanne ・バレエ団 Festival 2008 をGent の劇場で観ました。若いダ ンサーが 頑張っていて、Gil Roman とパートナーの pas de deux は圧感でした。 貴方の振付けは、人々に多くの事を語りかけます。貴方は私にとって やはり巨人 です。
⑬モーリス、私がBerlin で貴方の所を 飛び出して Paris に行った時、 一生涯の友を得たのです。その日本人女性は美容師。私は 余り社交家では 有りませんので、なかなか友達が出来ませんでしたが、 彼女は本当の友達です。私 より11歳、年下なのですが、色々な意味で 確かに彼女が上です。彼女は一人で二 人の娘を 立派に育てました。長女は 彼女の後を継いで 美容師に。 次女は 私の影響 を受け ダンサーに・・・。 私は Bruxelles の葦田 順子さんの家に行くと 楽しい家族で、トテモ幸せです。貴方のバレエ団を Marie-Claire が 辞めた後誰も友達がいなくて 何時も 彼女の何処 で 心を 休ませて居ました。 私がバレエ団を 飛び出して 再び Bruxellesに 帰って来た時、暫くして私の勧めで 彼女も Bruxelles にやって来ました。今は家を購入して美容院を経営して、 ソシ テ 陶芸家でも 有るんです。
[素晴らしき 友を持ちたる 我が人生]。 モーリス、 生涯の友を 持つことは、何にも増して 幸せな事だと 私は 思います。多くはありませんが、素晴らしい友を持って居ます。 その一人にシユツトツトバレエ団のダンサーだった、Ivan Cavallari が居ます。始め て癌に侵された時も、 又二度目に 肺と骨に移転していた時も、人一倍私の面倒を 見てくれました。 仕事の合間を見て 毎日 私を見舞ってくれ、イヴァンは 手術の後、 何も食べたくない私に 野菜スープの 中に 豆腐を入れて持ってきてくれたり、テレビの無い病室で退屈だろうと、小型 テレビを持ってきてくれたり. 色々な事でお世話に成りました。私のバレエ教室の レッスンも全て Ivan が 報酬無しで 教えてくれたり。本当に 姉弟以上にお世話に なりました。 イタリア人のイヴァンは、心優しい男性で、今 the West Autralian ballet の director をしていて、Stuttgart に帰ってきた時は 必ず、訪ねて来てくれます。
ドイツ人の Madame Elisabetta Kolb、 ドイツ語の余り達者で無い、私を 良く 助 けて、バレエ教室の事務、スタジオ公演の為の書類の事など、又 私が夫と別居し た時は、 Elisabetta が全部 書類の事を引き受けてくれました。そして 二十世紀バ レエ団からの 良き友、 Piotr Nardelli、Andrzej Ziemski。 元 Stuttgart Ballet団 Marc Machelen、ステブン・クリストン。 良い友達に 恵まれ て来た 自分の人生に感謝して居ます。
モーリス貴方にも、沢山の 良き友達がいた事でしようね。 私にとって貴方は余りにも 偉大でした。そう 感じる、私がいけないのかも 解り ませんが、 トテモ 近寄り難いものを ずっと感じて居ました。 貴方に もう 一度 逢って、人間対人間 として 話を したかつた! 貴方の主張する 「スターは 空に在るもので、 地上には無い」という説を、私な りに解釈すると、人間の平等性を言っている様に思われます。そして また「振付 けは、自分が創るのではなく、神が創るのだ」と いう事も 何か解るような気が します。 自然に、極自然に ほとばしる自分の中からの“神の力” 。そういうモノを信じ無い人 には、素晴らしいバレエを創ることは 出来ない!その為には、 毎日の努力、弛ま ない努力、其の積み重ねが 自然と融合して 神の力がほとばしるのだと 思います。
モーリス、神といっても 仏といってもいい。唯 外部から与えられるものでは無 く、自分の内部からほとばしる力を、 そういう風に言うんだと思います。自分 の中にある 自然の力、其れを信じて、 其の力を創造してイケる人が、才能のある 人、芸術家なのでは! 音楽 、踊り、美術に その力を現していける人が素晴らしいと思ます。
モーリス、 貴方は其の自然の力を 自分の中から発揮出来る、数 少ない芸術家の 一人だ!と肉体的には ダンサーとして 余り 恵まれて無い貴方 は、他のもの、例えば 腕の力 精神の力 人を見抜く力 を兼ね揃えて持っていたと思います。 貴方の振付けは 命の奥深い処から、迸り出て、頭で 考える人には 絶対に解らな い・・・それだけに 貴方が見つける ダンサー達は、一つ、ひとつの動きを 身体 で、命で、表す人達! Jorge Donn、Paolo Bartolozzi、Germinal Casado、Tania Bari、Victor Ullate。私の 時代の人々です。其れから 又新しいダンサー達が、貴方の命に感受して 踊つて行 くので しよう。
⑭貴方は 常々、舞台の上で死にたいと 言っていましたよね、 そう 貴方は最後まで 貴方の舞台に居ました。 2007年11月26日、貴方のお葬式に行 きました。(2007年11月22日 死亡) 。貴方が居なくなって4日後のことです。 ドイツを朝早く立ちました、 スイスのロザンヌに着いたのは 12時過ぎ。多くの一般の人々が 貴方のお葬式に きて居ました。 貴方はバレエを 特別の人や 上流社会の人々だけのものでは無く、一般 大衆化しました。バレエを知らなくとも、観れば、 年とった人も、若い人も 男女問わなく、全ての人が 感動する踊り として、貴方は残したのです。
貴方のお棺の前には そういう人々が行列作り 一人ひとり 頭を下げていました。 ビクトリオ・ベアージ、ドューシユカ・シンフォニオス、マリシア・ハイディ、ウ ラジミール・マラコフ。 多様な人々がきて居ました。 16時からは 関係者だけの セレモニー。舞台の真ん中に置かれた貴方のお棺!モー リス、貴方が 猫を抱いて居る大きな写真、貴方の愛した日常品。 色々な話や フイルム。貴方が 苦しまずに 安らかに、息を退きとったと聞き、 本当に良かった と思いました。人間の死に際は トテモ大切です。苦しんだり この世に心を残したりしては、次の生まで 安らかに眠る事が出来無いから! 私は その後の お別れ会には 出席しませんでした。次 の日に仕事があるので この日の内にドイツに帰ら無ければ成りませんでした。
⑮モーリス、私は文学者でも、作家でもありません。でも、ある 小さな 貧しい女性が、大西洋を渡り、外国で死に物狂いで、自分の目的に向かって “走った”。 私が言える事は、人生の目的を持って、忍耐と努力 そして 自分に負け ない事。でも 時々負けそうになります。そう言う時、私は仏に祈ります。宇宙と 自分を繋ぐ、このご本尊様に祈ると、力が湧いてくるのです。どんな境遇でも 幸 福になれる、そして生の終わりがきた時は 宇宙に溶け込んで行く‼︎ 此の仏法の教 えは素晴らしく大好きです。
モーリス、 貴方は何に祈って 居たのでしようか?私は貴方の事は何も知りませ ん。唯、貴方は偉大な振付師で芸術家で 有ったと云う以外は! 私はもう 70歳、今は‘癌との 闘い’ 。でも、一生懸命 生きられる処まで 生きて活 きます。其れは 人生は 終わりに近づいて 初めて 理解することができると思いま す。私の考えが 誰かの役に立てばと思います。初めから!解っていれば こんな素 晴らしいことは 無いのですけれど・・・ 。
モーリス貴方に 逢えて良かった。
2009年8月。 これが最後の日本への帰国‼︎ との思いで 出かけました。 京都にあった、母と姉の住んでいた私の家も、この年の2月に売ってしまつたの で、 私は大阪の 上の兄の家に滞在しました。と言っても兄も義姉も、癌で死んでいない。私も子宮癌・肺癌・骨癌 と三度の手術を受け、四度目は 何もできず、抗癌 剤で治療! 今は 落ち着いていますが、 何時また再発するか解らないので、今年は 日本に別れをする為に、帰国した様なモノです。
私は ドイツのシユトツトガルトに 住むのが とても嫌だつたのですが、結局は 此の地に骨を埋める事に成るでしょう。だから‘この夏は、日本に「さようなら」が出来ました。 朝鮮に産まれ、ヨーロッパに45年 住んでいる私は、 日本に18年ぐらいしか住ん でいません。でも 私は日本が大好きです。そして日本人であることを誇りを 持っています。
又癌の再発。デモ!もう私は何にも負けないのです。 何も知らなかった、小さな日本女性が この ヨーロッパでシッカリ生きて行くに は、大変なエネルギーが必要です。私には日蓮大聖人の素晴らしい信心が有り、生涯をかけて求め続けるバレエが有ります。だから 生きられる処まで 一生懸命 生きます。 生きるということは闘うことだと 思います。戦いは勝たねばなりません。私は負 けません。目を瞑るまで。ヨーロッパで生きて45年、やっと自分に自信と誇りを 持てる人間に成つたのですものね。
Hitomi. ASAKAWA ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
後書(仁美の生涯の友、葦田順子による)
仁美さんと出逢いは1971年の秋、Parisの私の部屋ででした。 下の階に住んでいた、富岡さん(ダンサー)を夕食に誘ったら、お稽古場で知り合 いになったベルギーのBruxellesに住んでいた 仁美さんを連れてきました。最初は、「ナンテお行儀が悪い人だなぁ!ダンサーは皆んなこんな感じかしら?」と思いました。でも其れから、 マサカ 死ぬまで付き合うとは。
彼女が二十世紀バレー団の公演を目の前にしてバレー団を飛び出したのは、 マスコミが称賛する中、フランス人の恋人とのイザコザを含めて耐え切れ無く なったからでした。彼女は、Bruxellesに舞い戻ってきていたのです。 ジョゼフ・パレヌが「モーリスに謝って バレー団に戻りなさい」と言い、彼の親切なアド バイスを聞いて、仁美さんは二十世紀バレー団に戻つて行ったのでした。彼女が戻って くるのを許したものの、モーリスの怒りはナカナカ消えませんでした。彼は仁美さ んを気に入っていただけに、何年もイイ役は貰えませんでした。そんな時、私達は出 会ったのです。
仁美さんの勧めで、私はせっかく慣れた Parisを離れ、ベルギーのBruxellesにやって来ま した。1972年8月9日のことでした。 BruxellesはParisより寒く、暗く、こんな所に住めるのかし ら?と チョット心細い気がしました。彼女の紹介で、ダンサーが Bruxelles に来る と 落ち着くまで 泊まると云う Rue Dominiqan にあるアパールトマン・Hotel に落ち着きました。その後 チョット 彼女のアパールトに住めることになります。その時 宴会を何度もして、 沢山のダンサーと知り合いになりました。 ベルトロン・ピー、パトリス・トウーロン、ジョージ・ドン、ピョートル、アン ジェ、etc.etc etc
その後 私達が住んだ. Rue des. Sable のアパールトマンが、其の 一帯で新しい建物が建つので壊されると聞いて 見に行きましたが。私達が住んでいた ア パールトマンは テラスを残して壊されて居ました。隣にあった art décoの ボロ屋 は 、今では立派な漫画博物館になっています。Bruxellesに 引っ越した私は、其の 頃の二十世紀バレー団の新作の 殆んどを観せてもらいました。
仁美さんは 38才で 二十世紀バレー団を退団します、そして Conservatoire de la Danse de Bruxelles の教師となります。 39才で長男を出産(これは 恋人のヨハヒムは 大反対でした。) 彼女は一人で歳をとる事が嫌で 長男を産んだのです。半年程経って、 ヨハヒムは毎月 2500BF(約1万円)を養育費として彼女に渡します。此れは 子供の保育園の費用にしかならないのです。そして二人は子供の為にと結婚します。(これは、彼女のお母さんのたっての願いでした)。 ベルギーから 一緖に行ったのは 2才の長男と 犬のペコチャン、私からの 結婚祝い の ノリタケの洋式ディナーセット。
ドイツで 一生懸命 働いた仁美さんは、 念願だった Studio de Danseを オープンします。そして夏は毎年8月に バレーの講習の為に 日本に行き、 冬の年末は ベルギーの我が家にやって来るのでした。友達と子供達と一緖に、生牡蠣、ムール貝を食べるのが楽しみでした。車 一杯、私の作った 皿・茶碗 etc・ 其れに 日本食をしこたま買い込んで、ドイツに帰って行くのです。私達の毎年恒例 の楽しみ。そんな普通のことが幸福でした。
病気になった時も、手術後の治療は 何もせず、自然に自分の抵抗力で治す!ソレが 一番良い と言う ヨハヒムと次男のアドバイスで、放射線治療も抗癌剤治療もしなかったのです。仁美さんは思い込んだらテコでも動かない人です。でも治療をしよ うと した時には もう遅かったのでした。仁美さんは 望み通り 自宅で亡くなりま した。(ヨハヒムのアパートです)
亡くなる 3日前に、ドイツの彼女のアパートに お見舞いに行きました。其の時「 前に見せて貰った原稿、私が本にするから」と約束しました。 仁美さんは自分で 出来ないのが 残念そうに 微笑みました。 3年が過ぎ、早く約束の本を!デモ遺伝の 心臓病が原因で 私は脳伷塞(其れも二度 も)。喉の筋肉もヤラレ、話しも手足を動かすことができません。生きていて欲しい とう娘達の声で、「多分無理でしょう」 と言う 医者を尻目に、7ヶ月のリハビリの入院生活を経て、今では一人で何とか 立っています。
退院して始めて手をつけたのは、仁美さんの原稿を本にすることでした。私も仁美さんも 余り学が無く、 彼女は踊りバカ。こんな踊りキチガイは 逢った事が無い と笑って居ましたが、彼女ほど 全身全霊 踊りの為に 生きた人を知りません。 仁美さんの初孫は彼女が亡くなる二日前に生まれました。彼女の望んだ女の子 〈 Hitomi と命名!〉。早いもので 3歳になります。
仁美さんの人生は、貧しい中で自分の信じた事、 好きで演りたい事を 全力で努力して“ 幸せな事に”なし遂げた人です。 二十世紀バレー団に居た頃からの友人 ピョートルにTel をして、「仁美の本を出し たいから (一言)書いてね!」と言ったら、 彼はふたつ返事で 忙しい中、 中国に振り写しに 行く前に書いてくれました。
二十世紀バレー団に居た頃は、安給料の中から 毎月 3分の1の お金を仕送りしてい ました。お母さんは それで京都の山の中に家を買い、 毎年、自分達で作った 椎茸を送ってくれました。Bruxelles に住んでいた頃は よく 鯖の 棒寿司をご馳走になりました。小さな身体で 犬のペコチャンの散歩をして、大き な赤ちゃんの子守をして、何時も優しいお母さんでした。
仁美さんは幸福なれると 思った結婚も、上手く行かず一人で頑張り続けました。 良く お正月に生牡蠣を食 べながら「私達 今 トテモ、幸せね!」と笑いあい、お互いの近況報告をして、健康 を心配しあいました。仁美さんから「ネエ 順子ちゃん 私の死に水とってネ!」と言わ れ、「ヨハヒムと 別れて 一杯お金をもらって 優々と暮らしなさい、そしたら 何で もして挙げる‼︎」 と私は言いました。彼女は トテモ気に入っていた 自宅(ヨハヒムのアパート)で 亡 くなりました。 76才でした。長男のジョージは 次の年に結婚して、3人の父親です。次男のケンジは大学に通っています。
本書の発行に当たって、仁美さんと一緖に 原稿を整理して下さった 佐藤さん、カ タカナをフランス語に直したりいろいろ 手伝ってくれた三千子、「仁美の思い 出」を二つ返事で引き受けてくれた ピョートル、 バレーのstudioを助けてくれた イブアン、イザベル、最後迄 お世話になった 義妹 のエブリン、しょうこさん。本当に、本当にありがとうございました。此の方々の 力添え無くしては 仁美さんの念願だったこの本は出来無かったでしょう。此の書面にて心よりお礼申し上げます。
《1979年12月モネ王立劇場の胸さわぎ》として有吉京子さんは、仁美さんに案内されてベジャールに会い、Rue des Sables の彼女のアパート で、caféをご馳走になった、と書いています。
随筆家の森島さんは《をりをりの記》の中で バレエ・ロミオとジュリエット 浅川仁美を讚ふ ベジャールの すぐれた振りをあでやかに 世界の人と踊る君はも ジュリエット踊る ひとりの日本の女の像を 今宵讚へむ いくぞたびくりかへし鳴る 終幕の拍手に きみの涙つたひ来る。
上野水香さんはドイツ公演の時、次にベジャールのバクチの赤の踊りを踊るという ので、仁美さんに紹介しました。
西野ともこちゃんが子供を連れてくる、渡辺レイさ んが金森ジョー君を 連れて 遊びに来る。色々な 世界のダンサーがやって来る。
私 と仁美さんの思い出は沢山あり、私が生きている間、彼女は私と一緖に生き続け、私 は又、 数々の人達と知り合い 仁美さんの話しをする事になるでしょう。
仁美の生涯の友 葦田順子 Junko ASHIDA
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浅川仁美ー類まれなるダンサー(ピョートルによる「仁美の思い出」)
《Hitomi Asakawa. Une danseuse Exceptionnelle,!》
junko ashida が仁美の本を出したいから、「何か書いてくれ!」とTelで 頼まれ た。我々の友達で、二年前に亡くなった 仁美 浅川の為に!
本当に ベジャールのお気に入りのダンサーでした。ベジャールは、彼女の為に幾つ かのバレーを振付けました。 ジョージ・ドンと ロミオとジュリエット パウロ・バルトローチ、とバクチ(白の踊り)。1973年 に 我々(アンジェとピョートル)は、二十世紀バレー団で働く為に Bruxelles に やって来ました。仁美はもつと以前から、団員でした。彼女と、少し ずつ近づきになり、沢山の国際公演で、いろんな国を一緖に周りました。 アンジェと私は日本公演の時、 何時も一緖で、 彼女の出身地の大阪公演の時は、暇さえあれば 一緖に 出かけました。彼女のおかげで 生まれて初めての日本食(ス キヤキ)を、Bruxellesの 元 二十世紀バレー団のダンサーだった宇田川さんの レス トラン(フジヤマ)で食べました。
Hitomiとは 第九の三番目のムーブマンを一緖に踊りました。我々は又、一緖に沢山の公演で踊り、色々な国を観て回りました。 いつだったでしょうか、小さなグループで、ドイツの Stuttgart に公演に行った時のことで す。演し物は《火の鳥》。 彼女は始めだけ、私は最後の《Bolero》を踊らなければな らないので、彼女は一人、近くにあるホテルに帰りました。その途中にハントされたのが、始まりとは!
我々のホテルは théâtre の近くにあり 、彼女の 前に素敵なポルシェbelle Porscheが 停まりました。そして美男子 Beau garçonが、「Bonjour!! よかったらお話でも!」。其れから飲みに行きDrink、 ”素晴らしい夜の恋”の始まり。其れがヨハヒムでした!
二回の公演の後、我々はベルギーに帰って来ました。時が経ち、そしてビックリ! 彼女に 子供ができたのです。彼女は40才近く!彼女は大喜び待ち望んだ赤ちゃん だったのです。ヨハヒムはイヤがったのですが、Hitomiにとっては最高の機会でし た。
クリニックは私のアパールトマンから500mしか 離れて居なかったので、私が 一番に 始めに 赤ちゃんと対面しました。だから、病院では 私が 「赤ちゃんの PaPa」だと 思われてしまいました。後にヨハヒムは、子供に逢いに来て、そして結婚 を申し込みます。
ドイツに引っ越した 彼女は舞台を少々離れてしまいます。二人 目の子供を Stuttgartで出産後、彼女はダンサーとしての仕事を辞めるのに大変な努力をします、踊りは彼女の生きて行く為の 源だから。そして彼女は昔からの念 願だったダンス教室 Studio de Danseをオープンします。後々、 Stuttgartバレー団のダンサーで Ivan Cavallariは、 彼女が出来ない時はいつでも手 伝って居ました。私が Sututtgarバレー団に 招かれた時 Ivan に会う機会がありま した。
そしてHitomiに逢える喜び、彼女は 私の大好きな日本食でもてなしをしてく れまた。沢山話すことがあり、時間の経つのも 忘れ、我々の愛するベジャール 、 彼女の憧れの人の話を山ほど するのでした。 彼女は自分の病気は忘れ(?)ベ ジャールの公演を観にparis 迄 車を走らせる 事もありました。頑張り屋の彼女は 病院に入院している時も、「一日も早く 仕事を したい !」と言って、一言の弱音も、吐いた事は ありませんでした。
最後に彼女に 会ったのは、 2012年に バレーを 振り移しに《Gaité Parisienne》行った時でした。 Hitomiと私は 初日を一緖に観ました。レセプションが終わり 翌朝 私は帰国し無けれ ば なりません。 「さようなら! 又 近い内に 」と言ったけど、 まさか其れが最後になるとは 思いませんでした。
親愛なる仁美。さようなら。 Adieu Ma chère Hitomi.
ピョートル Piotr
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2015年10月15日 発行 2022年オンライン発行。
著者 浅川 仁美、発行者 葦田 順子、 編集協力 志村三千子、 翻訳 葦田順子。 写真は友人の協力で本に 載せるのに貸して頂きました。オンライン化に当たっては、細田満和子が協力しました。 本書を無断で複写(コピー)することは、お断りします。
お問い合わせは、Junkobrx@yafoo.fr にお願いします。
有難う御座います。 大変に光栄です。 仁美おばさんの気性が好きなんです。 亡き父はよく知っていたそうです。 (兵庫県在住)